私は人より優れる事が好きです。
私は人を踏み台にします。
私は人の痛みを見て見ぬふりをします。
私は人の不幸を喜ぶときがあります。
私は人の幸福を妬み嫉妬します。
私は自分より劣る者を見下します。
私は自分の信念を貫く為に犠牲を出します。
懺悔。
懺悔という行為ほど倫理から逸脱し、にも関わらず人道的な行為はない。
身を以て己の痛みを知り、犯した罪を仏にうち明け、悔い改めると共に罪の浄化を願う。
元々懺悔とは、サンスクリット語のKshama(クシャマ)の音訳である「懺」と、中国語で人の許しを請うという意の「悔」とが結びつき生まれた仏教語であり、仏教語では「さんげ」と読む。
カトリックで言う、後犯した罪を聴罪司祭に告白し、悔悛の秘跡により罪の許しを得ようとするもの行為、confess(告白)、これも同じ行為といえよう。
その多くが特定の信仰を持たない我々日本人にとって、「懺悔」とは、教会の小さな懺悔室にて罪人が司祭に向け、壁越しにてその罪を告白し、許しを神に請うといったイメージを思い浮かべるであろう。
神は寛大である。
己の罪を認め、悔い、それを告白する罪人には、神は如何なる罪もお許しになるであろう。
私は特定の信仰を持った者ではなく、つまりは無神論者であるが、だからと言って懺悔というこの行為を無意味なモノであるとは思わない。
何故か。
人が自らの罪を償うには、その重さを知り、痛みを知る事から始まる。
懺悔とは、いわばこの行為を儀式化したものと言えるであろう。許しを請うのではない、己の犯した罪と向き合うのだ。
カトリックでは、人は生まれながらに背負う罪、Original sin(原罪)というものがある。
神は、最初の人間であるアダムとエバを創られた後、エデンの園に住まわせました。そして神は、一つの戒めを与えました。
「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」
しかしアダムとエバは堕天使サタンの「善悪の知識の実を食べれば神のようになれる」という誘惑に負け、その実を食べてしまったのです。
そして人間は善悪を知るようになりましたが、罪を犯した人間と完全な聖なる神との関係を自ら絶ってしまうことになったのです。
アダムとエバはエデンの園を追放され、人間の世界に罪と死が入り込むことになりました。以来全ての人間は、アダムが犯した原罪を負ってこの世に生まれ、生きていくことになったのです。
これが、カトリックで言うOriginal sin(原罪)である。
人は原罪を背負いこの世に生まれる、この概念はカトリックに限っての事ですが、人は善悪を知るからこそ罪を犯す、これは確かな事。
罪とは、人が創った人の為の社会での概念。
人の概念に善と悪があるからこそ、罪という概念が存在するのだ。
子供の頃、必死に虫取り編みで追いかけた昆虫。「誰も見ていないだろう。」と、交通マナーの違反。陰口や悪口など。
大なり小なり人はその人生の中で、必ず罪を犯す。しかし、その些細な罪の大半は、法律で裁かれる程度のものでは無い。
法律を犯した行為を罪と定義するのなら、法律でさばかれる事のない罪は、罪ではないと言えるのか。
人律するのが人であれば、己を律するが己自信なのもまた必然。
懺悔とは、法の概念に囚われず、己の善悪で己を律する行為なのだ。
善悪を判断し、己の犯せし罪の重さを知り、その痛みを知り、その償いを模索する。この行為こそ、人の取るべき道の現れ、すなわち人道ではないか。
法により裁かれる罪への罰など罰ではない。罪による罰とは、己が己自信を裁かずして成さず。
しかし、罪の意識とは千差万別。
人それぞれの善悪があるように、人それぞれの罪への認識がある。
人は気付かぬうちに他者を傷付ける事もあれば、気付かぬうちに人を追いつめる事もある。自分が良しとした行為であっても、他者が必ずしもそうであるとは限らない。
同じ行為をしても、その罪の実感は人それぞれである。
懺悔とは、つまりは己の解釈によって罪を定義する行為とも言えるのだ。
罪の重さとは、己が感じる重さ、他者が感じる重さ、被害者が感じる重さ、様々である。しかし結局のところ罪の重さなど、己が感じる重さ以外は理解し得るものではない。
他人の悲しみなど、その人の人生を一貫して体験しない限り、自分と置き換え客観的に実感する程度でしか知り得ないのだ。
故に、法というものが存在するだ。
法は、万民に、平等にその義務を課せられる。法とは、罪を裁くだけに存在するのではない。罪という曖昧な概念を、秩序を維持する為、形式上定義づける為にも存在するのだ。
法は秩序であり、法は罪を裁くものではない。
法を犯すとは、秩序を乱すという行為であり、法を犯すとは、必ずしも罪を犯すという行為ではない。
己の罪を、法で問うな。己の罪は、己で知れ。
私は懺悔する。
しかし、それは神に対してではない。己自信に対してだ。
そして、己自身が救われる為だ。私が懺悔しても、私以外の誰も救われる事はない。
自分しか救えないこの行為は、倫理的と言えるのだろうか。
|